何故、政治家になるのか(私の身上書)
・・・・・著書「翔」 より
かって私の祖父は政友会総務、衆議院議員として皆様のためにつくさせていただきました。私も祖父の遺志を引き継ぎ、政治家として生涯人々の幸せのために貢献しようと念じています。
私が政治家を志すようになった理由のうち最も大きいものは、父親からの教育によるものです。
幼いときから「お前は、大きくなったら、困った人を助け、世の中を発展させるような政治家になりなさい」と言われてきました。
私の家は、男が5人と女が一人の六人兄弟ですが、それぞれ小さい時から父親に、そういった各々の進路が示されていました。
長男は人の命を救うために医者となり、次男は家族を守るために家業を継ぎ、三男の私は人のために役に立つ政治家となり、四男は国家のために奉仕すべく役人 となり、 五男は将来の人類の食糧危機に対処するために魚の養殖を研究するという具合に、それぞれの適性によって異なった方向付けが示されました。
その他のことについては、ほとんど何も強制させられたことはありません。
幼かった私には、政治とか社会のことなどまだわかっておらず、高校時代までは何の目的もなく過ごしていましたが、いざ大学に進む段階になって、 『やはり、私は父の言うように政治家となって、国のために役立つ人間になろう。しかし、本物の政治家になるのならば、理想と信念を持たねばならない。
これ以上、親の世話にならず、自分の道は自分で切り開いていかなければ、何ごともできない。それには、心も体も鍛えなければならない。
また国を守るという政治の根本的なことを理解することが、政治の第一歩ではないだろうか。』という考えから、防衛大学校を選んだのです。
この学校は、昭和二十七年に吉田茂先生が独立したばかりの、日本の将来の平和と繁栄を守っていく人材を育成するために創立した学校であり、国際的視野から 日本というものを見るうえでも、これからの自分の進路にとっても、自分という人間形成の場にとっても、またとない学校であると判断したからです。
ここでの四年間の大学生活は、私にいろいろなことを教えてくれました。
一年生から四年生までの共同生活では、上下の縦社会による人間関係、一日二十四時間、規則や規律から逃れることのできない生活を体験し、精神的にも肉体的にも大変ハードな生活でした。
起床から消灯までの分刻みに決められたスケジュール、厳しい規則、 規律に基づいた学生生活、どこへ行っても逃れることのできない厳しい人間関係。それぞれの立場に役割の分担があり、本当に毎日が修練の場であったような気がします。
心安らぐときは、寝るときとトイレの中だけです。でも、途中で負けるわけにはいきません。ここで投げたら男の恥だ。自分自身が強くなる以外に他に道はないのだと自分に言い聞かせました。
そのうちこう思うようになったのです。『この苦しみ、痛みこそ自分の伸びている証拠なのだ。こんな苦しみに負けてしまったら、おそらく何もできないだろう。
私の人生において鍛えるには今しかない。苦しいことは嬉しいことなのだ。』そう悟ることによって、いろんな試練や苦しみがむしろ楽しみになり、とても意欲的になりました。
二年生、三年生と学年が進んでいくうちに、それぞれの立場の違いもわかりだし、秩序を保っていくためにやらなければならないこと、人を使うこと、人に使わ れること、同期と力を合わせて協力することなどを、多くの実績の機会を通じて体得しました。また人と接するポイントや、作業をうまく進めるコツがわかって きたのです。
やがて、四年生になり下級生を指導する立場になって、それまで気がつかなかった、人を教え、集団を動かし、組織を作り、社会を活性化していく統率や統御を、集団生活の体験をもって勉強することができました。
また、自分という人間が一体どの程度まで自分の弱点に耐えられるのだろうという試みもあって、当時防衛大学では一番厳しいクラブであったラグビー部に入り ました。足が遅く才能のない私にとって、毎日が辛い惨めな日々の連続でしたが、卒業までには絶対選手になるんだという努力目標をたてたせいもあって、何と か選手になることができ、「人間やる気さえあれば、なんでもできる。」という何よりの大きな自信にもなりました。
やがて卒業が近づいて、このまま幹部自衛官となって自衛隊に進むのか、それとも卒業と同時に、すぐ政治の道に進むのかという選択がやってまいりました。
私はまだまだ自衛隊や防衛という仕事をもっとよく知り、この身をもって感じてみたかったし、それ以上に自衛隊に対して私なりに何等かの仕事をして貢献をしてみたかったので、幹部自衛官の道を選びました。
幹部となっても、毎日厳しい日々が続きました。私はレインジャー訓練といって、人間の気力・体力の限界まで挑戦させて、精神的にも肉体的にもこれ以上のこ とはできないという状態にさせ、さらに次の任務を与え、それを責任を持ってやり通すことのできるような人間を育成する教育を受けたことがありますが、 この訓練で、私は死にかけたことがあります。
真夏の暑い日に重い荷物を背負って走っている途中で、熱疲労のため意識がなくなり、無 意識のうち倒れ、全身けいれんを起こしていました。幸い、訓練の安全対策を良くやってくれていたため、意識を取り戻すことができましたが、生まれて初めて 自分の本当の限界を体験したとき、ひとつの悟りが生まれました。
『何故、毎日死ぬほどに努力をしないのだ。自分の限界まで体を動かさないのだ。それだけ無駄をし、甘えているのではないか。
もし毎日このような努力をすれば、初めは凡人であっても、いずれオリンピック選手にも、総理大臣にもなることができるはずだ。
どこかで手を抜いている。自分の限界というものは自分ではわからない。無意識のうちに自分に甘えてしまって、精神的にも肉体的にも「そんなことができるだろうか」 というような迷いから自らにブレーキをかけている。
人間はやる気があれば何でもできるのではないか。ものごとを成し得ないのは、やる気を起こさないで安閑と暮らし、やろうとすることを避けて通り、やっているうちに苦しみに負けて断念してしまうからではないだろうか。
まだ遅くない。自分としてやるべきことを見つけて毎日全力で打ち込めば、何だって出来るはずだ。』
私は救急車に担架で運ばれながらこう考えていました。その時、自分が身をもって捧げるもの、命を懸けて登るべき山を見たような気がしました。
また部隊指揮官としても、多くの隊員とのふれあいの中で、多くのことを勉強させられました。自衛官は、本当にみんな国を守るために一生懸命努力をし、 この日本を守るのは私たちであるとういう強い誇りを持っています。毎日走ったり、穴を掘ったり、射撃をしたりすることこそ、わが国の平和と繁栄を守り、人 々の心の安らぎを保ち、人々の幸福につながると信じ、日夜、懸命に訓練をしています。
今、彼等に一番必要なものは、国民の理解と信頼であります。自衛官は訓練をするにも、また市民として生活するにも、色々制約を受けていますが、黙々と努力を続けているのです。国を守ることは国政の基本であり、今の日本に一番欠けていることはこの認識ではないでしょうか。
防衛に関しては私なりに勉強をし、自分の生き方や考え方もしっかりとしたと自覚したある日、私は自分の上司に、政治家になるため防衛庁を退職したいと相談いたしました。
上司も私のことを理解してくれ、この自分という人間を育ててくれた防衛庁を後にしました。その後、宏池会という吉田茂先生、林穣治先生、池田勇人先生、 大平正芳先生の流れをくむ政策集団で新人を探していることを知り、鈴木善幸先生と宮澤喜一先生のもとへ面会に行きました。両先生とも大変親切に迎えてく れ、幸運にも宏池会で面倒を見てもらうことになりました。
加藤紘一防衛庁長官、今井勇厚生大臣、宮沢喜一大蔵大臣の秘書として、代 議士の過酷なまでの生活や、 その政治にかける情熱を身を以て知ることができ、本物の政治家としての考え方、行動、人間的魅力、話しの仕方、そして、それを支えていく秘書としての努 め、その仕事のやり方などを、国会や中央官庁の政治・行政の現場を通じて学ぶことができました。
そして、政治家として何をやらなければならないのか、どうすれば、それを実現することが出来るのか、その流れはどうなっていくのか、何を誰が決定しているのか…等たくさんことを教えて頂きました。
本当に政治の道は難しいものです。しかし、この秘書時代を通じて、自分の政治や民主主義に対する考え方がようやく固まってきました。
政治家とは、それぞれ個々の人間集団の秩序を守り、社会を発展させていくために考え、行動していく人ではないでしょうか。人が二人以上集まればお互いの意見の相違があり、主張があるわけですから、双方の要求を満足させるためには、調整していく必要があります。
まして、地球上には五十億以上の人が住み、それぞれの人々が飢えることなく、戦争もなく、人間として豊かに暮らし、文化的にも繁栄をしていくためには、誰 かが政治という職業について、各国の要望が満足できるように協調を図るという社会的役割を果たさなければなりません。
あらゆる問題点を総合的に把握し、人間として公平に判断し、社会がより良くなるように適切に処置をしなければなりません。そのためには多くの知識と将来を見通すことの出来る洞察力が必要であります。
戦後、日本は世界史にも例を見ないほどの高度成長を遂げ、国民総生産が世界経済の一割を占めるほどの経済大国になりました。経済の中心もアメリカから環太平洋に移りつつあります。
交通や通信手段の発達によって、世界の経済は相互性を強く持つようになりました。これからの日本は国際国家として、世界経済の安定のために貢献をしなければなりません。
それが無資源国、日本の平和と繁栄が守って行けるかを真剣に考えなければなりません。また郷土、高知県につきましても、置かれている状況を克服して産業経 済を発展させ、全国的にも、これからの地方政治の模範となるような県土造りを行わなければなりません。私は今まで色々な人に会い、それぞれの貴重な経験を 経て政治の道を選びました。
しかし、これもすべて幼いときに父親から政治の道に進むように方向付けられたことが、無意識のうちに自分の体験をするすべてのことが、その方向に沿って進んできたような気がします。
まだまだ、勉強すべきことが沢山あるのですが、『人間は、やる気があったら何でもできる。』という言葉を信じて、人々の幸福のため社会の繁栄のために自分の生涯を賭けて生きたいと念じております。