天皇陛下の譲位と即位に伴う9連休は、働きづめの日本人に、30余年の平成時代をじっくりと振り返って、その評価や反省、懐かしさを吟味する時間を与えてくれました。また、令和という時代をどう生きるのか、 国を発展や戦争や経済恐慌がないように 次に繋げるようにすればどうしたらいいのか 考える機会を与えてくれました。
平成は、 戦争もなく 、人々が心を寄せ合い、新しい文化が生まれ育って、 国民の絆を強め、 経済の安定成長になって 生活上の幸福度が高まり 民主主義の成熟が図られましたが、国の借金が増え、人口減少が日本経済の足を引っ張り、AIやIOTが人間から仕事を奪い、世界では民族や宗教の対立からテロや紛争が拡大しつつあります。日本は、様々な知恵を集積し、仲間で力を合わせ、諦めずに国民と共に栄えていく国を目指すべきです。 そのために政治家に必要なものは 「男児の本懐」 とも呼ぶべき 覚悟と 実行力 です。
昭和4年に成立した浜口雄幸立憲民政党内閣は、日本が戦争への道をおしとどめる理念と気迫をもってました。 私の祖父、中谷貞頼も同じ時代の衆議院議員であり 浜口雄幸と 同じ高知の選挙区で、戦争に向かうことに反対し、真摯に国の将来 を 考え発言し行動してました。
浜口がめざしたものは、「いくら軍備を拡張しても国力の差から英米と戦って勝利することは不可能である」というリアルな現実認識があり、国際連盟などを中心に世界との協調すること。とくに中国との関係修復による緊張緩和が軍備縮小につながり、貿易の活発化にもつながると考えていました。 私の祖父も同じ考え方でした。
貿易を活発化し、物価を安定させるために、金本位制への復帰もめざし、金解禁を断行します。この過程で、不採算企業を退出させ、産業構造を高度化して、製糸業と綿紡績業中心の経済から重化学工業などにも足場を置く経済へ変えていこうと考えました。
さらに金解禁をすすめるには、健全な財政運営が必須であり、それが軍部のわがままな軍拡要求を拒否できる、壁となる、軍国主義的ではない日本のあり方を考えていました。政治家である祖父たちは、日本経済を立て直し、田中義一内閣で進んだ軍国主義化への道を緊張緩和による平和回復へと引き戻そうとしましたが、中国における特殊権益の拡大や軍備拡大こそが日本の安全と利益につながると考える軍部や右翼勢力と対立し、金解禁にともなう構造改革が不景気をもたらし、労働者や中小企業経営者、農民といった人々の不満を高めるものであることがわかっていました。
当時の心ある政治家は、自らの行おうとする改革が自らの命を危険にさらすことを知っており、自らは、命をかけて軍国主義への道に立ち向かう、勇気ある「男子の本懐」を覚悟し、幣原喜重郎を外務大臣に、日銀総裁であった井上準之助を大蔵大臣とします。
幣原国際協調外交で対中国中立策が復活。中国との関係修復をすすめ、米英とともに中国国民政府を承認し、それを支え成長をはかる友好協力方針をとります。中国が押しつけられていた不平等条約の改正を支持し、日本の企業の利益を守りつつ関税自主権の承認にふみきり、治外法権についても段階的な解消の方針をめざします。
こうして中国との関係は改善の方向に進みましたが、中国での民族運動が思った以上に進んで、国民政府は利権回収や満鉄平行線敷設など日本の権益にふれる動きをすすめており、米英などもこれに協力的だったことです。
こうした動きは日本国内の世論を刺激し、陸軍や右翼などの勢力は「日本の権益を守らない『軟弱外交』である」と、野党政友会とも結んで批判を強めました。また、軍縮問題では、ワシントン海軍軍縮条約は主力艦(戦艦)の保有数を決められ、「戦艦とちがえばいいだろう」とばかりに、各国は巡洋艦とか、潜水艦などの戦艦以外の軍艦を増やしました。1927(昭和2)年ジュネーブ軍縮会議が開催されましたが失敗に終わり、軍備拡張は、各国にとって経済負担となるだけでなく、互いの疑心暗鬼を強め、緊張をまし、さらなる軍拡になりました。
浜口内閣は元老の西園寺や天皇側近とも打ち合わせのうえで会議に臨みますが、海軍は会議に臨んで、「対米英70%以下では困る。このラインは死守して欲しい」と 釘を刺しました。ところが、交渉の結論は69.75%。「少しぐらい負けてくれたらよかったのに」とのちの展開を知ると思うのですが、「アメリカ議会の承認を得られない」という事情からやむを得ないと判断します。そこで現地の海軍大臣をはじめ、海軍の大勢の理解も得て、浜口は内閣の責任で条約を締結 しましたが、海軍関係者は納得してなく、これが統帥権干犯問題となります。
金解禁と昭和恐慌については、管理通貨制度が失敗してしまいました。この当時、世界の大勢が金本位制度に復帰していたにもかかわらず、日本がとっていたのは管理通貨制度でした。これは、現在の世界が採用しているやり方です。
管理通貨制度では、それぞれの国が自分の判断で通貨を発行できます。したがって自国の金庫の中にお金がなくとも、必要な大量のお金を発行することが可能となります。めちゃくちゃに通貨を発行すればインフレになって国がつぶれますので、どのように手綱をとるか、なかなか面倒な制度です。収入不足は、原則として国内外から公債という借金で穴埋めをします。
戦争などで大きなお金がいるときは都合がいいですが、どうしても金(かね)使いが荒くなり、一度はじめてしまったことは止められず、借金を重ねてしまいがちです。そうなると、インフレが起こりやすく、国際信用も低下し、貿易にも支障が出ます。
これにたいして「『身の丈』に合った額の通貨しか発行しない」という制度が本位制度です。この場合の『身の丈』は、それぞれの国が持っている金または銀の量です。金の場合が金本位制、銀の場合が銀本位制です。金解禁を断行したとき、日本は13億6千万円分の金をもっていました。この額をもとに計算して、発行すべき通貨量を決めるのです。
そして、通貨を日本銀行に持って行くといつでも金と交換してもらえます(金兌換制度)。お札にもそう書かれます。ちなみに100円の通貨は、金75gグラムと交換してもらえます。(金75グラムは49.845ドルですから、円はいつでもドルと決まったレートで交換でき、安心です。浜口と井上はこういう仕組みで経済が安定化し、貿易発展にも役立つと考えたのです。
金本位制は財政を安定させます。『身の丈』に合った額の通貨しか発行しない」のですから、財政規模は「日本がもっている金の量」に規定されます。ローンは組まず、カードももたたない現金払い一本で行く主義です。これにより、「もっと金をくれ」という軍部や政党などの要求も拒むことができ、浜口らのねらいは、財政面から軍部を押さえ込むことでした。
しかし、発行する通貨が減るとデフレ(お金に対してモノの値段が低くなる現象、作っても売れない状態)になり不景気になりましたが、浜口らは、質素倹約で改革して、痛みに耐えなければ、 健全な日本財政にならないと考えていました。デフレになることで、質の悪い製品、生産性の悪い設備、外からの資金で延命している企業が姿を消すことは仕方がないと考えたのです。
他方、貿易が安定すれば鉄鉱石や綿花といった原材料の輸入がしやすくなり、とくに重化学工業の発展が促され、「ぜい肉をそぎ落として筋肉質になった日本は面目を一新して世界の市場に乗り出していける」と考えていました。
財閥など大企業に都合がよく、中小企業には厳しい政策という批判はありますが、労働組合法や小作を救済するような社会政策も検討していました。さらに、アメリカの銀行の保証も取り付け、井上は全国を遊説し金解禁の意義を説き、国民の納得を得る努力もしました。この時期、人々は浜口らを信頼していました。
1930(昭和5)年1月11日、金解禁政策が開始されましたが、世界恐慌(大恐慌)であるニューヨーク・ウォール街の株取引所で株価の大暴落が発生した2か月半後に実施されました。不景気になると安定資産として金や銀などを買い集めます。不景気になり出したことを心配した人々や企業は金という資産を手元に置こうと考え、日本が「金を売ってやる、しかも割安で」と言い出したので世界中から注文が殺到しました。金はあれよあれよという間に流れ出し、予定に反して輸出が伸びなかった事とも相まって、金解禁時の13億6千万円あった金は2年後の1932年4億円に減ってしまいました。
昭和恐慌は、世界的な現象としての世界恐慌(大恐慌)と浜口内閣の失政としての金解禁政策が引き起こしたものでした。持っている金の量しか円を発行できない、これが金本位制です。だから、手持ちの金が減れば発行される円の量が減ります。これにより、強烈なデフレが発生しました。
物価は金解禁から2年間で30%下落、生糸に至っては66%の下落。生糸と並ぶもう一つの主要輸出品の綿糸・綿布は、二大輸出先の中国とインドが自国産業を守るために関税率を引き上げ、やはり輸出が減少しました。金解禁によって輸出が好調になるという思惑は外れ、日本の輸出額は43%という大幅な減少となりました。
世界恐慌はアメリカから始まりましたが、当時アメリカは世界中に金を買い付ける「世界の銀行」で、アメリカがドイツに金を貸し、ドイツが賠償金としてイギリスやフランスにその金の一部を支払い、イギリスやフランスがアメリカの大戦中の借金を返す、というシステムができたことで、1920年代のヨーロッパや世界が動いていました。
ところがアメリカがコケて、アメリカの銀行はドイツに金を貸さなくなります。それどころか世界中の国で「貸した金を返せ」といい出します。世界中の国でお金が回らなくなり、激しい不景気に襲われます。この豊かなアメリカの、豊かな人に支えられていたのが、日本の輸出品の「不動の四番バッター」、生糸でした。
人は、景気が悪いと贅沢品から節約をはじめますが、生糸や絹織物の売れ行きが落ち、生糸の価格は2年間で66%の下落、二年前の1/3の値段となって、手間賃どころか、原料費にもなりません。生糸の原料の繭は、農村でつくられます。だから生糸輸出の激減は農村へ大きなダメージを与えました。
さらに運の悪いことに1930(昭和5)年は記録的な米の大豊作で、米の値段は暴落、8月に1石あたり30円であった米価は10月には19円と2/3と暴落。翌1931(昭和6)年は一転して大凶作、さらに翌年も凶作で、農家が抱える借金は年間所得の1.5倍を超えました。弁当をもってこられなかった「欠食児童」は、全国で20万人にのぼりました。「娘の身売り」を村役場が斡旋するようにすらなりました。
「デフレスパイラル」は下落の連鎖で、都市においても恐慌の被害は深刻でで、輸出量の激減と物価の下落は工場を、企業を次々と苦境に陥らせます。最初は売値を下げ、賃金の引き下げや労働時間の短縮、さらには「リストラ」(人員の削減)や事業所の整理がすすみます。どうしようもなくなった企業が休業や倒産に追い込まれ経営者の夜逃げや賃金不払いで市中に失業者があふれます。仕事を失い、新たな仕事を見つけられない人々は、これも不況のどん底にあるふるさとである農村へ帰っていきます。兼業農家の兼業も切られます。中小の地主たちが土地を返してもらおうとして、小作争議も急増します。
デフレスパイラルの模式図は、給料をもらっている人たちが減り、その給料も下がっていくと、さらに購買力が下がります。物価はいっそう下がり、倒産がすすみ失業者が増え、さらにものの値段が下がる。このような景気の悪循環のデフレで世の中は一挙に不穏な空気に包まれていきます。
こうした不況の中、人々はおとなしく賃金を引き下げられたり、クビにされ、農民たちは生活を守るために立ち上がり、労働組合加入率や労働争議数は戦前最高を記録、労働争議は賃金引き上げなどの要求から、賃下げ反対・解雇反対、さらには解雇手当支給といった、より切実な内容となっていき、その数も、参加者も急増します。低賃金・無権利状態におかれた紡績女工たちの間でも争議が多発、公共料金の引き下げを求める消費者運動も活発化しました。
農村でも、小作争議も急増。これまでの小作争議の要求の中心が「小作料減免」であったのに対し、「小作地引き上げ反対」が中心課題となり、規模の小さな争議が多発、生活をまもるという社会の矛盾の深刻化と争議の活発化の中、マルクス主義や非合法組織であった日本共産党の影響力も拡大していきます。
こうした風潮に恐怖を覚えたのは、特高警察などによる取締も強化、社会の混乱や農村の疲弊は財閥など大資本家、それと結んだ政党政治の責任であるという声もひろがり、その解決に軍部を中心とした全体主義体制を求める声が、軍部や在野の右翼勢力の中から生まれ、クーデターが計画され、テロが横行する時代となっていきます。
この政策に政治生命をかけている浜口や井上は強気で信念を貫きます。浜口内閣打倒を呼びかける労働組合の世界恐慌は一過性であり、世界はすぐに立ち直る。今、この辛い時期を我慢をすることで緊縮の効果があがり、日本の産業は近代化し、貿易も発展する。この道しかない。と堅く信じていたのです。
さらに、財政改革さえ進めようとしました。こうした姿勢に対し、政友会は議会で厳しく内閣の責任を問い「金解禁を中止し公共事業などで有効需要を拡大すべき」という政友会の側に理があったことは、現在では明らかで、有効需要を増加させることで経済の立て直しを図るという経済政策を説くイギリスの経済学者ケインズの著書はまだ発刊されていませんでした。当時の経済学の水準という限界の中に彼らはいたのです。恐慌にともない生活や将来の不安が広がるという不穏な空気のなか、政友会は厳しい攻撃を仕掛けてきました。
鳩山一郎は、統帥権干犯問題で浜口内閣を厳しく追求、ロンドン軍縮条約は海軍の意向を聞きながら内閣の責任で条約を承認しましたが、海軍の中に「軍備は、軍隊の作戦にもかかわる内容なので、作戦にかかわる軍令部の承認が必要だ。ところが軍令部の責任者の正式な承認をうけず内閣が勝手に調印したのは、天皇が軍隊を指揮するという憲法の統帥体験に違反する」と「統帥権干犯問題」として内閣を攻撃します。
政友会による攻撃は、政党政治というみずからの基盤をも掘り崩す「禁じ手」で、政敵民政党を追い込むという目先の目標実現のための追求であり、政党政治の二大政党制の弊害で、浜口内閣の幣原協調外交や井上金解禁政策に反発している勢力ー軍部強硬派・右翼・一部マスコミ、そして政友会ーが連合して、浜口内閣に大攻勢となりました。
浜口は金解禁直後に実施した衆議院選挙で獲得した民政党の絶対多数を背景に、正面突破を実施し、天皇とその側近の支持も得ながら、ロンドン軍縮の批准(承認)を手に入れましたが、昭和5年11月、議会での論戦も一段落がついて地方遊説に向かう浜口が東京駅で暴漢に腹を撃たれ、体調をくずし、入院します。
この間、衆議院では政友会が大攻勢を掛け、戦後首相となる政友会の鳩山一郎は、浜口に国会に出席して答弁することを強く要求、責任感の強い浜口は国会答弁に立ちますが、その無理がたたって病状を悪化、1931(昭和6)年4月に政権を若槻礼次郎に譲り、8月になくなります。戦争の道を回避しようとする政策と勇気をもち、政党政治の頂点といわれる浜口内閣の時代がおわったことは、 良識や国民のための行動や発言が 理解されないと言う 非情な構図が 政治には 存在すると言う ことです。
浜口内閣終焉の5か月後、浜口の死の1か月後の1931(昭和6)年9月18日の柳条湖事件をきっかけに満州事変が発生、日中十五年戦争が始まります。軍隊、それも陸軍の一部隊に過ぎない関東軍の行動を、内閣も、議会も、さらには天皇や天皇を取り巻くグループも、軍隊中央すらが制御できず、現状追認をくりかえすことで事態を悪化させていきます。
浜口の時代は、こうした制御がぎりぎり可能であった時代であったのかもしれません。あるいは制御の可能性をなんとか探っていた時代だったのかもしれません。政友会の「統帥権干犯」という攻撃は軍部へのブレーキを自ら破壊し、その暴走を止める手段を放棄しました。制御の利かなくなった軍隊は暴走を繰り返し、勝手にあらたな戦闘行為をはじめます。こうして日中十五年戦争が展開していきます。そして有効な手を打たず現状追認を繰り返す内閣や議会は国民の信頼を失い、内部の制御すら利かない軍隊は暴走をくりかえし、国民とアジアの民衆を、世界を、戦争へと導いていきました。
「統帥権干犯」を声高に叫んだ政友会総裁犬養毅が軍部の暴走を抑えようとして五・一五事件のテロに倒れたのは翌年のことでしたが、「もし、浜口がもうすこし政権を維持していたら」 日本は戦争なることは、なかったでしょう。 新しい時代に入るんじゃったって これからの日本の政治家はこのような ナショナリズムの暴挙に、男児の本懐 の精神 を持って 食い止める 責任がありその覚悟 を持たなければなりません。
時あたかも、デフレの経済の中でも活力を取り戻すにどうしたら良いのか?小選挙区という、片寄った意見が反映されやすい時代の中で、令和の始まりに「男児の本懐」 の決意を誓います。