浅草・東本願寺にある憲政の碑。

戦前の高知県安芸市出身の衆議院議員、胎中楠右衛門が、1933年(昭和8年)の5・15や2・26事件の軍部のクーデター事件や血盟団事件で政権の要人が暗殺され、政党政治や民主主義の危機に際して、憲政、政党政治の奮起・啓蒙・擁護・発展を守る思いを込めて建てた碑である。

伊藤博文、原敬、濱口雄幸、井上準之助などの政治中枢の首領暗殺に続き、昭和7年5月の五・一五事件、昭和11年2月の二・二六事件では、首相、政友会総裁を務めた高橋是清、立憲政友会総裁の犬養毅首相、高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監憲などが凶弾に倒れ、大政翼賛会によって、政党政治が死滅した。
碑には「政党否認ノ声ヲ聞クニ至テハ是等先輩ニ対シ深ク慚愧(ざんき)ニ堪ヘサルナリ」とある。政党不要論まで巻き起こし、憲政の先達たちに合わせる顔がないという胎中楠右衛門の嘆きが、この碑を建立させたという。

それから85年。時代は違うが、政治行政の公の憲政の意識が弱体化し、森友・加計問題や自衛隊の不祥事など行政の 国権の最高の機関である国会へ の背信行為や公の志の欠如が横行に対し、与党は掌握や統制ができず、分裂と再編を繰り返す野党に政権交代のエネルギーは乏しい状況にある。

政党政治は専制的な藩閥政治に反発した明治の土佐の自由民権運動から生まれたものであり、その使命感には、まなじりを決し行動を起こしてこそ世論は動く気概と志があった。

その精神が希薄になったと感じた胎中楠右衛門は海老名と浅草に憲政碑を建てたが、立憲政治の再生の願いもむなしく戦時体制の荒波の中で政党は解散し、その理想は国難の名の下に消えていった。

これは、その時代に起こった特異な事例ではない。彼は、この憲政の碑を残してくれたが、その国家に悲劇を繰り返さないようにするため、今こそ憲政を守る志を持たなければならない。