岡本行夫氏から教えられたこと。

● 私と岡本行夫氏との出会いは、今から30年前の1990年8月、「湾岸戦争」の報告を外務省から受けた時のことです。

当時、岡本氏は北米1課長で、日米外交安保の第一線担当者でしたが、国連で、はじめて武力行使容認決議が出て、「日本は、どうするのか」厳しい判断をしなけれなならない時でした。

当初、日本政府は、お金だけで良いだろうと、130億ドルの資金協力を積み上げてましたが、岡本氏が米軍将校に会った時、「日本も国民一人当たり100ドルも負担する」と話したら、彼はポケットから100ドル札を出して、『君にあげるから、イラク軍と戦ってくれ。イラクの侵略に対抗するため、米国は多国籍軍を編成し、「正義の戦争」で戦っているのに、自由と民主主義という理念を共有する日本はなぜ、多国籍軍を支援できないのか。』と不信感を持っていた事を話しました。

その後、政府は、米国からは、「ショー・ザ・フラッグ(旗を見せろ)。日本は他人事でない、同盟国として、お金だけの支援でなく、国際社会で評価できる人的貢献が必要だ。」と迫られ、岡本氏は北米一課長として、対米協力の具体策作りに奔走し、海部内閣で、多国籍軍の後方支援のために自衛隊を「平和協力隊」として派遣する国連平和協力法案を作成、国会で審議しましたが、国会答弁が混乱し、あえなく審議魅了で廃案となりました。

なぜ、国会審議で国連平和協力法案が成立できなかったのか、岡本氏は、「どこまで戦闘地域に近づけば武力行使の一体化になって、どこからが後方支援で許されるのか、国会答弁では、戦闘行動と後方支援の区別ができなかった。」と教えてくれました。

その後、日本のお金だけの支援は国際社会では評価されず、紛争終了後に自衛隊の掃海艇が派遣され、機雷の処理を行いましたが、これは評価されました。

● その時、岡本さんは、すでに行動の鈍い外務省を退職して、外交アナリストとしてテレビや新聞で活動され、国際情勢の変化や自衛隊の国際活動の必要性をわかりやすく、信念を持って語り、国民の理解、納得、共感も進んでいきました。退職した理由は、1外務省で対米外交の中枢を担ったが、国際貢献に踏み出せない日本の「限界」を痛感し、在野から発信を続けるためでした。

◎ PKO法案が国会で成立した後で、我々若手議員とカンボジアへ自衛隊が派遣される前に現地視察に行き、UNTACの明石代表やシアヌーク国王などとも面会し、PKOの認識を深めましたが、偶然、プノンペンで滞在していたホテルで、国連ボランティア活動をされていた中田厚仁さんと国際貢献を話す機会がありました。

夜遅くまで議論をしましたが、その後、中田さんは、選挙ボランティア活動中に、テロリストに殺害されました。我々は、中田さんの世界の平和や人々の幸せに対する尊い精神を大事にするため、岡本さんと共に、海外で活動しているボランティア活動の政府による保障制度を創設しました。

◎ また、岡本さんとは、硫黄島を視察し、50度を超える「壕」の中で、旧日本軍の水筒と飯盒を見つけましたが、一日水筒一本の水でひたすら耐え、何ヶ月も、少ない食料で耐え忍んだ戦時中の飯盒を見て、身を持って日本を守ってくれた栗林隊の英霊に経緯と感謝をし、摺鉢山に立っている日米両国の慰霊碑に、今、平和であることを報告し、哀悼の誠を捧げてきました。

● 自衛隊の国際活動については、その後、防衛庁長官や党の国防部会長の時に

①PKOでの「参加5原則」、
②日米ガイドライン周辺事態の「後方支援地域」、
③9・11米国同時多発テロ事件での対テロ支援法やイラク復興支援活動での「非戦闘地域」、
④日本有事のための武力攻撃事態法案で「国民保護法制」など、
私なりに岡本氏から助言とアドバイスをいただき、憲法と自衛隊の関係を整理し、あらゆる事態に切れ目のない活動できる法律の整備をすることがでました。

⑤ 岡本氏は、自衛隊の集団的自衛権の行使容認を盛り込むことが、国の安全保障や対米支援に必要だと常に言ってましたが、5年前に防衛大臣の時、「平時から、存立危機事態」に至るまでの対米支援を可能とする平和安全法案が成立することができ、日米関係が格段に良くなったことを、本当に喜んでくれました。

● 橋本龍太郎内閣では、沖縄問題担当として、普天間基地の辺野古への代替施設移設。米軍再編・縮小のSACO合意。沖縄から本土への基地移転など、頻繁に沖縄入りして現地の方との信頼関係を築き、沖縄振興策策定の最前線で活動されました。

岡本さんは地元の住民と、時には場末のバーまで行って酒を酌み交わし、地をはい回るような、血の通った対話を重ねて信頼を得た。沖縄に寄り添い、沖縄のことを知ろうとする稀有(けう)な官僚だった。岡本さんの努力と熱意によって97年12月、比嘉鉄也名護市長が住民投票の結果と自らの職を辞してまで、辺野古への移設受け入れを表明することにつながったのです。その後、沖縄でサミットもあり、基地の移転縮小も進み、稲嶺、仲井眞知事との関係も維持されました。

● 小渕、森、小泉内閣の安全保障問題ではリアリズムに、歴史問題や沖縄問題でもリベラルという立場で、日本の外交のさまざまな面で助言し、前へ進めてきた歩んでこられた」日本政府の安全保障の戦略家でした。また、「簡単な右とか左といった(思想の)色分けはできない共通の立場」に立つ、貴重な総理官邸の外交補佐官でした。

米ソ冷戦の真っただ中で、米国は日本を対ソ連封じ込めの最前線ととらえていたが、冷戦後の日米関係で大事なことは一人一人が自分の頭で考えることだ。現実はそうはなっていない。むしろ、理想から離れているようだともこぼしていました。

● イラク復興支援では、米国との戦争で疲弊したイラク各地を歩き、米欧の各国とも折衝して日本の支援を進めて、自衛隊のサマーワでの貢献の調整に当たりましたが、岡本氏と一緒に働いていた在バグダッド日本大使館の奥克彦参事官と井之上正盛書記官が、イラク西部のティクリット付近で殺害され、岡本氏は落胆し、首相補佐官を辞し、外交の舞台から退きました。

鳩山内閣では、普天間飛行場の県内移設が事実上白紙となり、日米関係が悪化する中、背後で、岡本氏が日米関係の修復にも動きました。しかし、沖縄で革新県政となって、今までの信頼関係が崩れてしまっている現状を、岡本氏はため息をつきながら眺めていました。

日米安保協力ガイドラインを協議したカート・キャンベル元国務次官補は、「多くの異なる分野の人々を引きつけ、生涯にわたる友情を築かせたのは彼の人間性によるものだ。今日の日米関係は、岡本行夫氏のような人々が築き上げた」と、長年にわたる岡本氏との思い出を語りました。

●岡本氏が言っていた「地球規模での日米関係」とは、日米安保が日本及び極東の平和と安全のためにのみあるのではなく、「自由と民主主義という価値観を共有する」両国が、地域紛争の解決、途上国の飢餓、人権の尊重といったグローバルな問題で協力するという二国間安保の拡張である。

急成長するアジア、とりわけ中国を見据え、抑止力としての日米安保と在日米軍をいかに維持すべきかにありましたが、同時に「専守防衛」「日米安保条約」など、様々な戦後秩序に基づく日本外交に限界も感じ、「米軍兵器の爆買いはだめだが、武器輸出三原則の緩和もだめだという論理は両立しない」とも言っていない。

日本の安全保障を巡る議論は、日本の成長を妨げてきた事なかれ主義の象徴だ。憲法の前文には、国際社会で名誉ある地位を占めたいと思うとも書いてあるよ。

米国に対しても、日本に対しても、夢を持ち続けていた岡本氏。それは、見果てぬ夢だったのかもしれません。

これまでの岡本氏が残していただいた、日本外交・安全保障の実績と各国との大きなパイプを大事に、今後とも、日本の外交安全保障の一端を担っていきたいと思っています。